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  • レトロ・ダンス



    レコーディングは、 
    田仲の喉の調子の復活待ち。 
    風邪でも引いたのだろうか、 
    詳しい状況は良く知らないが、 
    あれはあれでなかなか体を良く壊す。 

    あるいは、体のことに無頓着なのかもしれない。 

    今日の昼、本屋に言ったら、 
    「考える人」という季刊誌が売っていて、 
    それに村上春樹のロングインタビューが載っていたので、 
    買った。 

    1333円。 
    雑誌の割りに高い。 
    そして嫌味なくらいにおしゃれで、趣味がいい。 

    インタビューはまだほとんど読んでいないが、その冒頭には、 
    "The auther should be the last man to talk about his work." 
    (作家は、自分の作品を決して語るべきではない。) 
    という彼の考えが示されていた。 

    そのインタビューは、最新刊の1Q84の内容についても触れているので、 
    まずそれを読んでから、インタビューを読んでくださいとの注意書きがあった。 

    そういえば、丁度1年前くらいに1Q84のBOOK1が発売された時、 
    友人のアメリカ人が、「1Q84」の読み方や、その意味が分からなかったらしく、 
    僕が一緒にいた他の日本人と「いちきゅうはちよんが云々」と話しているのを聴いて、 
    日本語の「9」の発音とアルファベットの「Q」の発音がかかっていると初めて知ったようだった。 

    1週間くらい前に、録音作業が少し頓挫して、 
    落ち着かない気分になったときに、 
    当分は読まないでいようと思っていた1Q84を、 
    しぶしぶ読み始めていた。 

    まさに、しぶしぶ。 
    そうして、やっぱり入り込めなかったのだが、 
    また今日再び読み始めたら、 
    少しずつ入り込めるようになってきた。 

    「作家は決して自分の作品について語るべきではない。」 
    その言葉を示しつつも、彼はここ数年自分の作品に対し、 
    かなりきちんと語るようになってきたと思う。 
    きっと何かしら思うところがあるのだろう。 
    川の流れが、いよいよその河口へと近づき、 
    大海へと合流しようとしているような、 
    そんな雰囲気を感じる。 

    彼は1979年の29歳のときに初めて小説を書き、 
    その「風の歌を聴け」という作品で作家デビューした。 
    29歳。 
    僕もいま29歳で、10月でいよいよ30歳になる。 

    今大学受験を教えている高校生の男の子が、 
    村上春樹が好きで、つい最近「海辺のカフカ」を読んだという。 
    感化されやすい17、18の子が、 
    どういう風に感じ、何を考えながらああいう小説を読んでいるのかが興味深い。 

    彼には英語を教えているのだが、 
    教える上で一番注意しているのが、 
    細かい文法や、単語の意味よりも、 
    頭の使い方、主に記憶の成され方をどううまくコントロールするかを伝える、ということだ。

    小中学生、高校生に勉強を教えていると、 
    不思議な現象に良く出くわす。 
    それは、簡単に知った事は、簡単に忘れるということ。 
    「先生、この単語の意味なんですか!」という問いに対して、 
    僕が即答してしまうと、彼はその意味をほとんどの場合すぐに忘れる。 

    きちんと時間がある場合、僕はその問いに対して、必ず反問する。 
    つまり「何だと思う?」と。 
    「この単語の意味は、もう既に君は知っているはずだよ。だから、一回自分で良く考えてごらん。自分の頭にじっくり問いかけるんだよ。この単語の意味は何だろうって。つまり、君はこの単語の意味が『分からない』んじゃなくて、ただ単に『思い出せない』だけなんだ」と。 

    セリフはちょっとかっこよく書いてみた。 

    そうして素直な彼らは、ううんとうなりながらその単語の意味を、 
    実際に自分の頭の中に尋ねてみる。 
    薄暗く粘度の高いその空間の中に、 
    じっくり手を伸ばし、もどかしくも色々と手を探ってみる。 
    すぐに途方に暮れてしまうこともあれば、 
    うまく記憶が収められた引き出しを見つけられることもある。 
    さらにうまくいけば何かの拍子にすっと引き出しが開いて答えを取り出すことが出来るが、 
    大抵の場合は、何かに抵抗されて、うまく引き出しを開けることが出来ない。 

    そうして彼らがすっかり降参したときに、 
    やっと僕はその答えを教える。 
    "banana"の意味は、「バナナだよ」と。 

    ……。 

    こういう風に与えられた記憶の引き出しを開ける鍵というのは、 
    向上心のある人間の場合、中々自分から簡単に手放そうとはしないものだ。 
    苦労や感動が大きいほど、手に入れた記憶の鍵をいつまでも大事そうに持ち、 
    あるいは慈しみさえする。 
    手に馴染んだその鍵は、いつもほどよく表面に薄い油の膜が張っていて温かく、 
    記憶の扉を開け損じるということがない。 

    電子辞書もそうなのだけど、 
    ぱっと簡単に調べられた単語の意味は、 
    やっぱりぱっと忘れてしまう。 
    下手をしたら、調べたその瞬間に忘れてしまう。 
    つまり、大げさに言うと、凄く簡単に調べられるということは、 
    むしろ何も調べていないのとほとんど同じことに違いないのかもしれない。 

    街で日々すれ違う人々のように、 
    確かにすれ違ったに違いないが、 
    誰一人として覚えていない。 
    そして時間が経てば経つほど、 
    果たして本当にすれ違ったのかどうかすら、 
    確認する手立てがなくなっていく。 

    本当に自分の身に起きたこと、本当に自分が経験したこと、 
    それらをまさに本当のことなのだと確信させるのは、 
    唯一自分の記憶でしかないという事実。 
    記憶の客観的な正しさというのは、 
    その記憶の内容を誰かに伝えたときに、 
    それに同意する人間が多いか少ないかの問題に過ぎない。 

    ある記憶を、実感に満ちた生きた記憶にするためには、 
    五感に訴えるのがもっとも有効だ。 
    現実性というのは常に、五感をフルに活用するからこそもたらされる。 
    強い記憶というのは、リアルな記憶だ。 
    リアルであり、自然であり、 
    むしろそれ以外のものではありえないという確信だ。 
    自分の名前を聞かれて、それに答えるとき、 
    その答えた自分の名前というのは、自分自身にとてもリアルに響く。 
    リアルであり、自然であり、それ以外のものではありえないという確信がある。 

    そしてなぜ自分の名前をそんなに強く記憶しているのかといえば、 
    それは自分の物心付いてからの全人生において、 
    名前は常に関係してきたからに他ならないし、 
    むしろ切り離すことが不可能だったからだ。 
    自分の唯一の名前の下で、日々起床し、食事を取り、 
    誰かと会話をし、どこかの空間に身を置いて、 
    病気になったり治ったり、様々な事件を経験したりして、夜に眠る。 

    つまり、五感をフルに稼動させて人生を歩んでいるときに、 
    そこに常に自分の名前があったのだ。 
    だから自分の名前は決して忘れないし、 
    むしろ忘れることのほうが不可能だ。 

    強い記憶というものは、そういうものだ。 
    だから僕は自分の生徒たちに対して、 
    わざと大げさに、「自分の名前が覚えられるなら、覚えられない知識なんてない」 
    と言い聞かせている。 

    教科書に基づいた勉強という観点から見れば、 
    その結果である点数や受験の合否なんていうものは、 
    記憶力の問題ではない。 
    というのも、記憶力は誰にでもあるからだ。 
    問題は、記憶のメカニズムを管理できないということであり、 
    管理できない原因は、自分をコントロールできないことによる集中力の欠如だったり、 
    生活リズムの乱れだったり、健康状態の悪さだったり、 
    親子や兄弟関係の悪さや、最初から勉強に少しの意義も見出していないことにあったりする。

    だから、専門的にではないにせよ、こうして記憶のメカニズムを考えてみて、 
    それがうまくいかない場合の問題点を細分化してみると、 
    実は学校の勉強が出来る出来ないは、 
    一般に言う「頭の良さ」とはやはりかなりずれていることにあらためて気がつく。 
    世間で言ういわゆる一流大学に行っている学生や、 
    その卒業生と話をしていても、どこかが優れていると感じることが少ないのは、 
    きっとこのためだろうと思う。 

    彼らが恵まれていたのは、記憶力や理解力ではなく、 
    むしろ安定した家庭環境や経済環境や健康状態に過ぎないのではないかと思う。 
    あるいは、偏差値の高い大学に行く事に大きな意義を見出しやすい環境で育ってきた、 
    というだけに過ぎないのではないかと。 

    つまり、やはり誰かが所属するカテゴリーで、 
    その人間の本質を判断しようとするのは、有害無益と言わざるを得ないのだろう。 

    と言いつつも、大学受験を控えた高校生には、 
    やるならちゃんとやるようにと伝えている。 
    簡単に何かを知ろうとしないこと、 
    頭で変に考えようとせず、ひたすら地道な作業を続けること、 
    参考書は自分の好きなデザインを重視して選ぶこと。 
    これらは五感を生かすために重要なことだけど、加えて重要なのは、 
    他の多数の受験生が当然のように手を出す勉強法は、まず疑ってかかること、ということだ。

    なぜなら競争で生き残るということは、多数の者が無視するものに目を向け、 
    彼らが一斉に注目するものはまず疑うこと、 
    加えてもっともシンプルでオーソドックスであり、 
    尚且つ労力の多い道を選ぶことにより達成されるからだ。 

    そして生徒たちが自分の記憶力に対して自信を失いかけていたら、 
    僕はいつも彼らの名前を目の前に書いて、それを読ませてみる。 
    そうして彼ら自身に問いかける、 
    「どうして今これが読めたの? アメリカ人はこれを読めないんだよ」と。 

    @@@@@@@@@@@@ 

    とかいいつつ僕がやらなきゃいけないのは、 
    音源を仕上げることだバッキャロー! 

    こういうノウハウみたいなのを、 
    創作や活動に活かせたらなと、思います。

    Yoshida
  • テレフォン

    普通のブログを書くこころみ。

     月曜日の朝方、僕は用事があって神奈川県相模原市に車で出かけていた。家を出たのは夜の11時過ぎ、50キロ先の相模原に到着したのは、1時間30分後の午前12時45分くらい。家のある埼玉県から相模原までは、国道16号線をただひたすら走れば到着する。夜は11時過ぎにもなれば、道は快適に空いていてずっと60キロ前後のスピードで走ることができる。

     相模原に到着し、いくつかの用事を済ませ、帰宅の途についたのは午前4時少し前くらい。空はすっかり明るくなっている。家に着いたときに目が冴えて眠れなくならないように、サングラスをかけ、ハンドルを握る。今度は16号線は使わずに、相模原から八王子付近を抜け、多摩、府中、東村山などの街中を抜けるルートを選ぶ。そうすれば帰り道も退屈せずにすむ。

     iPodをカーステレオにFMトランスミッター経由で接続し、Lady GaGaを聴く。iPodは先日型落ちの20GBのものを中古で4000円で買った。ひとりでする少し長めのドライブには、iPodほど重宝するものはない。明け方の白々しいやけに奥行きの浅い光に浮き彫りにされた街並みを抜け、彼女のいくつかのヒットチューンを聴く。東京郊外の夜が明けて間もない朝に、彼女の歌声はもちろん似つかわしい感じはしない。

     といっても、曲の秀逸さがそんな違和感をすっかり吹き飛ばしてしまう。

     そうして"Bad Romance"や"Paparazzi"や"Telephone"を聴きながら、府中刑務所(3000人以上の累犯者が収容されている!)の脇をかすめ、その高くそびえる壁の古代の遺跡のような霊的な存在感にぞっとしつつ、残りの道を進んでいた。この東京都下の街並みの持つ独特な雰囲気を、自分がいったいどう感じているのかいつもはっきりと掴めず、この朝も信号待ちのたびに道路脇の家やマンションや商店などをぼんやりと眺めていた。

     今停まっている信号のすぐ左脇には古い家屋兼倉庫のような欅(けやき)の木材屋があって、その正面入り口がなぜか雑草でふさがれていて、にもかかわらず扉のガラス越しに見える中にはきちんと木材が積まれているので、ここにはどこからどうやって入るのだろうと少しいぶかっていると、信号はすぐに青に変わり、その信号のあっけない変わりようと同時に僕のその店に対する興味もあっけなく捨て去られた。アクセルを踏んで車を発進させ、目はサングラスでさえぎり、ステレオからはLady GaGaのテンションの高いダンスチューン、眠気と疲れで頭はぼんやりし、今日一日に起こったこと、そして明日一日で起こるだろうことなどをとりとめもなく思い浮かべていると、自分の視界の右端を、何か見慣れないものがふとかすめていくのに気がついた。

     無意識にそちらのほうに目をやると、30代くらいの男の人が、歩道と車道の丁度境目くらいのところに、不思議な格好で倒れているのが見えた。その体の関節の力のなさからみて、彼が意識のないことはすぐに分かった。だがそれでかえって朝の人通りのまばらな街並みに馴染んでしまっているようでもあった。異様過ぎて、もはや異様でなくなっていた。放置自転車が転がっているように、ゴミ袋が投げ出されているように、どこかから来た毛布のような布切れがぐったりと丸まっているように、彼は歩道の上に投げ出されていた。

     とっさに車のバックミラーを見ると、僕のすぐ後ろには大型のトラックが走っていた。その運転手があの彼の存在に気づいたかどうかは分からなかったが、トラックを停める気配はなかった。僕は車を進めながら、少し迷った。まず考えたのは、あの彼はきっと酔っ払いに違いないということ。もっとも可能性としてあり得べき結論だろう。僕が一瞬見た限りでも、彼が血を流しているようには見えなかった。だから、僕がそう推測して、それでその推測によって安心し、その推測による安心によって自分の行動の正しさを担保する、というのは当然といえば当然かもしれない――

     ――というよりもむしろ、面倒なことには巻き込まれたくないというのが車をすぐに停めなかった最大の理由に過ぎない。

     大したことではないといえば大したことではないのだが、なぜか車を先に進めながら酷く引っかかるものがあった。Lady GaGaの音楽を止め、窓を少し開けて、軽く深呼吸をした。そうしてその夜に相模原で会っていた人のことを思い出した。もし彼女が例えばひき逃げのようなものに遭い、すぐに誰かに見つけられたものの、応急処置が遅れて命を落としてしまうようなことになったら、きっとその家族や友人や恋人は二重に悲しむことになるだろう。ひとつの不幸に対して、もうひとつの不幸がさらに同時にのしかかることほど呪わしいことはない。

     そんなわけで、僕は車をUターンさせて、彼が倒れていた現場まで引き返した。朝の光は先ほどよりも白々しさを増して、空気の温度と密度も少しだけ上がっていた。車のタイヤがアスファルトを切る音が耳に生々しく響く。いくつかの信号を過ぎ去り、排気ガスを含んだ初夏の朝の甘い風の匂いを嗅ぎながら、僕はなぜか自分のギターについて考えていた。1997年製のギブソン・エクスプローラー。真っ黒なボディに真っ白なピックガード。厚く重く鳴りの深いボディとパワフルなピックアップ。そしてそこに張られた6本の弦。その太い低音弦を左手の指先でなぞるときの、淡く穏やかで柔らかな甘みを帯びた感触をぼんやりと頭に浮かべながら、僕は「彼」の元へと帰っていった。

    Yoshida
  • もんもん

    もんもん

    もんもんもん

    もんもんもんももん

    きょくきょくー

    きょくきょくきょくー

    きょっきょきょきょきょくー



    「山ちかく家居しをれば時鳥なく初こゑをわれのみぞ聞く」
    (源実朝)






  • new shit

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